下津醤油の創業者下津利兵衛は文久元年から昭和13年まで江戸、明治、昭和と激動の時代を生き抜いた、気骨ある事業家
でした。
 三重県関の田中家から姉が下津家に嫁ぎ、子供が出来なかった事から、弟である4男の利兵衛を養子としました。
 利兵衛は事業家であると同時に、茶道をこよなく愛しました。茶道を学ぶことは、茶道の作法を学ぶという手段を経て、日本の
思想、道徳、宗教、美術、文芸、建築、音楽、味覚等、あらゆる文化の総合に触れるということでありました。
 利兵衛は茶人である久太夫と食通である魯山人、2人の大物の名前を商号に使いたいと思ったようで、それは利兵衛の生き様
から推察できます。
 久太夫との接点は10代目の時、下津家の次女が川喜田家の分家久三郎に嫁いでいることや、お茶に招き、夫人や令嬢が当家
を訪れ、その時の様子が絵入り礼状として残されています。
 利兵衛が魯山人の作った星が丘茶寮(東京)へ足を運び、その時の様子は利兵衛の旅日記に残されています。
 利兵衛はお茶を楽しむため、大正9年から3年かけて別荘を造り珂雪園と名付けました。珂雪園とは雪のように真っ白な貝と
いう意味で利兵衛の生き様が出ています。
 伊勢銀行が破綻した際、利兵衛はお客様に迷惑はかけられないと、私財を投げ打ったことがエピソードとして利兵衛が死亡した
際の新聞に載っています。
 所得調査員に選ばれたことを誇りにしていた利兵衛は、会社の利益より、川喜田久太夫や北大路魯山人に美味しいといわれる
醤油作りを目標にするため、敢えて大物2人の名前を商号に使うことで、自分を奮いたたせていたのではないでしょうか。
 こればかりはあの世に行って、本人に聞いてみないとわかりません。

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